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生きること以上に死ぬことを学ばなければならない。―『チベット 死者の書』より

自分の活動を始めたきっかけ、自分の思想が築かれたきっかけ

別のSNSに書いた内容なんですが、ブログ向けの内容だと思ったので、コピペしてブログにも掲載します。

 

 

あたしは肉体の美しさこそ本物だと信じてこれまで自称『アーティスト活動』をしてきた。全てを凌駕する高い価値のあるものとは、美、それも肉体の美であり、そして性的な美であると信じて活動を展開してきた。

 

どんな有能な人間でも、どんな権力や金、あるいは芸術や芸能的能力に秀でた人間でも、『美しい人間』には敵わない。少し私のその思想のきっかけとなった出来事を話すと、それは高校時代だった。

 

地方の進学校とはいえ厳しい教育をされた。偏差値こそが人生で最も大切で、入る大学の偏差値こそが人生を決めると教育された。ピュアな少女だった私はその洗脳を見事に信じ込んだ。だが成績は振るわず、自己否定感は高まっていった。生まれて初めての鬱病、自殺未遂。

 

クラスメートたちや先生たちにあたしの価値を認めてほしかった。テストの点数だけで人間を判断してほしくなかった。こんなのおかしい、と思い始めた。だけどこの考え方に共感してくれる友人は誰一人おらず、独りで不良になっていった。大好きな音楽が、『人を救わない』と身をもって知ったのもこの頃。

 

美は、何もせずともその価値を語れるということに気付いた。裸はもちろん、たとえ服を着ていても、美しい人間は、その美という価値を、ただ黙ってそこにいるだけで主張することができる。テストの点数は、テストを受けて結果を出して初めて人に伝わるし、何かの能力も、その能力を証明できる何らかの

 

行動を行わないとその能力を証明できない。だが、美は?何もしなくていい。ただ、そこに居れば、生きて居れば(いや、死んでいたとしても!)伝わる。美とはそういった価値があると気付いたのが高校時代だった。

 

ここから、社会人になってトレーニングやヨガにドハマりするきっかけとなる習慣が私の生活に加わる。肉体美のために、毎晩、ストレッチを行うようになったのは高校時代。そして、鬱病の治療も兼ねて独自にランニングを習慣化したのもこの頃。運動とは、美の生成だけでなく、精神的な浄化にもなる素晴ら

しい営みであると学んだのもこの頃だった。また、初めてヌードを自撮りしたのも高校時代だった。性、美、運動の精神的浄化、そのような独自の美や性の価値観を形成していったのも高校時代だった。美の追究とは精神的な営みでもあった。

 

人を魅了すること。人を性的に魅了すること。これは私が幼い頃から意識してきた、人生で最も強く意識してきたことだった。性や、人を魅了したいという願望を持つこと、それらは下品なことではない。古代の記述でも、音楽は、異性を性的に魅了するために奏でられるものだと記述されている。

 

美や性、性欲とは人間本来の、尊い、明るいものであり、清いものである。そのような考えを幼い頃から持ち合わせていた。

 

あたしは2020年4月1日に、ヌードモデル、ポルノアートアーティストと自称し、初めて公に活動を始めた。

 

あれから約3年が経とうとしている。あれほどこだわって、信じて行っていた運動のせいで1年以上身体の痛みを抱えるなど、目も当てられない失敗経験もした。借金問題もあった。今はそれらが全て解決している。新たなステージだ。

 

時々思う。『何も形として生み出していないじゃないか』と。『病的なこだわりなのではないか』と。

私は作曲家のように素晴らしい楽曲は制作できないし、私のピアノの技術なんてたかが知れている。芝居やダンスや歌の技能にしても同じ。私は『何も出来ない』『能力が無い』特にインターネット上で他人

の活動を知るたびに、自分と比較してしまい、自己否定感が高まることはとても頻繁にある。未だにある。

 

だけどその度に思い出したい。あたしが追究していることは、古来からの本質で、人間の本質で、全てを凌駕する高い価値あるものなんだと。その道を立派に歩んでいる私のこの生き様は尊いんだと。

 

私のこだわりは決して間違っていないし、本質であることに変わりはないんだと。

 

あたしにもし『何も生み出していない』と言う人が居たら、こう答えようと思う。『この美しい我が肉体と、人を性的に魅了する天性の才能による他人への計り知れない精神的影響力だ』と。