LI/GHTS DOWN

生きること以上に死ぬことを学ばなければならない。―『チベット 死者の書』より

HSS型HSPという敏感体質。鬱で死にたかった学生時代、親の理解を得るためにしたこと。自分の気質を活かした芸術活動。

家庭内で私だけがHSP体質です。しかも私は全人口のたった6%といわれているHSS型

多分、HSSの要素があるからこの家庭でもやってこれたんだと思います。

(用語の意味がわからない方はぜひ調べてください)

 

学生時代は辛くて鬱病にもなりかけたのに、家族は無理解で、私は学校に行きたくなかったのに、行けとばかり言ってきて、

精神科に行きたいと話したときも『病院になんか行ったら病人ということで履歴書にも響く』と言って、行かせてくれませんでした。

 

病院じゃなくてもいいから何らかの救いがほしい。支援がほしい。わかってくれる人に話を聞いてほしい。

↑この言葉ならまだ伝えられたのかも知れませんが、鬱病になりかけていた当時の私にとってこんな言葉すら言う勇気も余裕もありませんでした。

 

また親自身が

敏感な性格のせいで生きているのが辛くなり死にたくなる、という経験をしたことがない人間なので、

私の苦しみが全く想像もできず理解もしてくれませんでした。

 

あまりにも家族と私で体質が違いすぎて、同じ親子で、

あたしはママのお腹から出てきたのに。かつては体が一体化していたのに、なぜこんなにもわかってくれないの?

といつも思っていました。

体は繋がっていても心は繋がっていない。親子でこんなにも違うことがあるんだ。

当時の自分、10代の自分にとっては驚きでした。

 

結局、わからない人間には必死で言葉で説明するしかありませんでした。

言葉で言わないとわからない連中なんだと気付くのに8年近く掛かりました。

自分の体質について、家族にプライドを捨てて説明する、その勇気を得るのに8年かかりました。

話そうとするたびに恥ずかしさで涙が出る。

親の前で泣くというのはかなり抵抗があるもので、これを書きながらも泣いていますが、

たった17歳そこらの高校生が、まず、

親と自分では体質が違いすぎるし、言葉で話さないとわからないんだと気付くこと、

そして勇気を持って言葉で自分の体質について説明する勇気を持つこと、は、

とても難しかったし出来ませんでした。

 

私は高卒で働いていますが、社会人になってから(しかもここ4年ほどでやっと)逆に親を敏感体質を理解できるような気質へと教育していきました。

言葉の説明というよりも、まず家の換気をしました。

換気をすると空間の空気が良くなって落ち着くし、感覚も冴えるからです。

外の空気を家に入れるというのは大切なことです。

換気だけで親は敏感体質へもう少し理解を示すような気質へと変化してくれました。

清潔な空気の影響というものは素晴らしいものです。

 

もちろん、ここ3年ほどは特に力を入れて言葉で説明する努力をしています。

日本は、言葉以外のところで察する、空気を読む、直接的に言葉を出すのは失礼だ、言葉以外の部分を読み取るのが大事だとする文化がありますが、結局言葉に勝てるものはありません。

 

今は私はなんでもはっきり言葉で言います。

言葉以外で伝えようとする、言葉以外でわかろうとするから曖昧になるんです。

私はその曖昧さが嫌いなので、はっきり言葉にするし、なんでも大事なことは曖昧にせずにはっきりと言葉にする勇気を得たのは

私が2020年4月に自分は芸道を往くと覚悟を決めて、人生や生き方に関して腹が据わったからというのもあります。

 

一番辛かった高校時代は、理解者がいないままたった一人で乗り越えました。

正直言ってメンタル的な辛さで言えばこれまでの人生で高校時代が一番つらかったです。

 

近年ようやく日本でも広まってきたらしい、HSPという敏感体質の名称は、私は私の心理カウンセラーの先生に聞いて知った言葉でした。

そして私がHSS型であるということも、その先生から聞いて知りました。(自分の性格を表す記号としてその名称があるんだということを知りました)。

 

病気ではありません。

強みです。

 

私のやっている芸術表現は、私がHSS型HSPだからできることで、鈍感な人間には表現できません。

 

私は、敏感体質は病気ではなく強みで魅力なんだということを身をもって示したくてこの活動をやっているというのもあります。